私にしては珍しく邦画のDVDを借りて観た。大林宣彦監督の「青春デンデケデケ デラックス版」である。1992年の作品で、浅野忠信、ベンガル、根岸季衣、永堀剛敏らが出演している。
四国の観音寺に住む高校生4人の3年間のエレキ・バンド活動をとおして青春を描いたものである。
時代が私の高校時代とほとんど同時期で、懐かしさに充ちていた。GSやベンチャーズに憧れて、彼等を真似てエレキギターを始めた者もいたし、ドラマーの格好良さを真似て、やたら机を叩いた記憶がある。
エレキの少し前に、ギターを弾くのが流行り、私も中3か高1だか記憶は曖昧だが、友人の南君にギターを安く分けてもらい、少しの間、教則本を見ながら練習をしたが、結局はものにならなかった。
ものにならなかった決定的な要因は、音が取れないこと。こればかりは先天的なもので、どうしょうもない。足寄高校のブラスバンド隆盛の礎を築いた十勝書房とはエライ違いである。
しかし、ギター練習が無駄でなかったのは、教則本に書かれた「あざみの唄」との出会いである。以前にも書いたが、この時点では誰の歌かも知らなかった。伊藤久男のヒット曲と知ったのは、ずっと後のことで30代に入ってからであった。
汽車(直ぐにディーゼルに取って代わったが)通学をしていたが、車内でギターの上手な田中良典くんや須川充くんが弾くのを聴いて、楽器が出来る人をいつも羨ましく思ったものだ。
白いワイシャツに黒のズボン、今のように格好良くない大人用の自転車。当時の高校生を思い出す。松坂大輔似の主人公がまた、みずみずしい。さわやかで、今の高校生のように真面目なのか不良なのか判別に悩むこともない。全員、すれていない。
映画では3年の文化祭で初めて全校にエレキを披露する晴れの舞台。夢のような舞台を終えて待ち受ける現実と楽しかった4人のバンド活動への断ち切れぬ思い。
私も高2、高3と文化祭で演劇をやった。自分で脚本を書き監督をやった。舞台装置も手作りで、鋸を手にした私によって学校の備品が密かに舞台の材料となった。
劇は歌と踊りを交えたコミカルな芝居で、いづれも大喝采を博した。
主人公の心理が良くわかる。華やかな幕後の歓びと寂しさを知っている。
文化祭にはもうひとつ思い出がある。友人の松田五十四くんのエレキ・バンドの演奏会には出席したが、交際相手のピアノ独奏会は無断欠席して後で恨まれた。
当時の私にとってクラシック音楽は、退屈極まりないもので、家で聴く音楽と言えば学園ソング、高倉健の「網走番外地」や小林旭の「落日」、大好きだったエルヴィスなどのポピュラー・ソング。
それでも通販でクラシックのレコードを買って努力をしたが、途中で投げてしまった。クラシックが受け入れるようになったのは20代後半からで、それも突然聴くようになった。不思議な話だが、その年に亡くなったマリア・カラスが夢枕に立ち悲しい歌をうたい、私にレコードを買わせるにいたったからで、クラシックはオペラのアリアから入った。
オペラや歌曲が聴ければ伴奏のピアノは聴けるはずとピアノに手を広げ、そこでアルトゥール・ルーヴィンシュタインに出会った。ショパンに酔いしれ、なかで も「夜想曲」が好きで何度聴いても飽きなかった。
ベートーヴェンはヴィルヘルム・バックハウス、スヴャトスラフ・リヒテルが好きで全曲盤をコレクション。
クラシックを聴くジャンルは、その後全てに及び、今はバッハの宗教音楽を主に聴く。 交響曲を好んだ30代から徐々に室内楽を愉しむようになり、宗教音楽に至った。
クラシック音楽を受け入れるに至る前に、20代半ばに、同人誌のサークルでの文芸の創作活動を盛んにやった。物書きは畢竟才能である。そう書いたのは遠藤周作だったろうか、私はその言葉を痛感した。当然、才能のない私には努力して も良い作品など書けるわけがない。
しかし、産みの苦しみを味わうことによって、芸術が解るようになった。ものの見方も自然と解るようになった。その事が後にクラシック音楽を聴くときに役立つことになったと思う。ピアノの一音や弦のひと掻きが、何を意味するのか心でしっかりと感じることが出来た。
皮肉なことにクラシックを受け入れ、その素晴らしさに憑かれたように傾倒していったのは、彼女が亡くなってからのことであった。
兄や友人に励まされ受験にかかる主人公。将来に対する漠然とした不安や 希望…。マーラーの交響曲第1番そのものの心象風景。
私の思春期、青春期は、もっと重く苦しいものがあった。
それは中学2年から始まった。生徒会長として職員室に出入りして先生方に接することの多かった私は、そこで教師の裏と表を見て極度の人間不振に陥った。
教師は人間としても立派なのか!そうでなければ彼等は単にティーチング・マシーンにすぎない。全能者ぶって高い所からものを言うんじゃない!私の教師への反発は激しいもので、人間として尊敬できる一部の教師以外は、先生と呼ばなかった。
特に高3の時の担任とは終始対立したまま卒業した。だから内申書の評価は最低だった。
人間として尊敬の出来ない教師に評価されるのは、たまったものではない。
私は教師と言うだけで高い所にいると勘違いしている、最低の校長や教師を数多く観てきた。また、多くはないが教育に戦後民主教育の高い理想と情熱を持った金八先生のような熱血先生、人柄が自然と滲み出て悪童たちも一目置いた先生も知っている。心から先生と呼べる先生だ。
さらに、剣道はやっていたが精神は繊細な文系の者からすれば、体育系の教師の単細胞な生徒指導は、迷惑そのものだったことも思い出す。彼等には人の機微が全く解らない。要は単純なのである。
まだ大人になりきっていない私には、本音や建前の区別がつかず、真理はひとつと信じていた。だが、ものの見方には見る角度によって、正しいものが正しくなく、正しくないものが正しい、と言うことに悩み苦しんだ。
時は70年安保の時代で学園闘争が激しく火を吹いていた時代でもある。
それまでの果断即決の明快さは影を潜め、判断に迷うことになった。
さらに私を苦しめたものは学校のある熊野市のもつ気風、風土に馴染めなかったことがある。中学時代から馴染んでいた川ひとつ隔てた和歌山県新宮市の方が私には合っていたが、当時、越境入学が厳しくて断念した経緯があった。
熊野市の人には悪いがこればかりは好みの問題だからどうしょうもない。3年間、終ぞ馴染むことはなかった。
人間不信はつのり山奥でひとり暮らそうとも思ったことがあった。それを親友の苔原順二くんや松田くんによく話した。
青春時代が暗黒の時代であったか、と言えば、楽しいこともいっぱいあった。恋愛もした。当時は純愛、今とは違う。基調として流れるものがマーラーの第1番を重くしたもので、悩みから抜け出る20代半ばまで約10年続いた。
当時の影響かそれともAB型の特徴か、濃い人間関係が苦手で、人ごみの多い所も息がつまりそうで好きではない。自分の時間を持つことを大切にする。ヨーロッパの人間に近いのではないだろうか。
「青春デンデケデケ」は青春の色々な事を思い出させてくれた。長い悩みの軛から抜け出るきっかけとなったのは、別れてもなお忘れ得ない女性の死と、私の運勢を好転させてくれた一白水星の先輩との出会いがあった。長いトンネルをぬけ私の青春は終わった。
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